「激動の時代の中で生き抜いてきました」と阪下社長は笑顔で語った。戦後、日本の高度成長とともに成長した繊維産業であったが、「昭和40年代」に入ると日米繊維交渉で繊維輸出規制が交わされるなど、繊維産業は厳しい状況に陥る。特に蒲郡市をはじめ三河地方で一般的であった綿織物は斜陽化していった。
そして、綿織物から脱却するための一手がインテリア織物、産業用織物への参入だった。木綿だけでなく化学繊維の染色や、生地を引っかいて表面に風合いを与える起毛加工の技術を生かし、カーテンなどのインテリア製品を小ロットで生産できるように対応したことで受注を増やすことができた。また自動車などに使われる合成皮革の基となる生地など産業用織物の生産も開始。アパレル繊維業と比較して安定した生産量を確保することが可能になった。このように艶栄工業は木綿から化学繊維へ転換を進めていったが、競争の流れは激しさを極めることになる。そして、新たな挑戦は「編物」の分野へと向かっていく。
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