ところで、話は今から2年ほど前に遡ります。当時、私の経営するミルゲートでも、御多分に洩れずリーマンショックの煽りを受けて広告の扱いが減り始め、さらにWEB領域のプロモーションを標榜する同業他社が増え始めたことで、何かしら他社と差別化を図る事業の確立が急務となっていました。その中で私が選んだのが中国。もともと身内で随分前から中国に進出している人間がいたので、その彼の伝手を頼りに、日本企業の中国向けプロモーション事業を開始しました。そして、在日華人を社員として迎え、度々中国へ出向いて媒体社や協力会社の開拓を始めて少しずつ基盤が出来始めたころ、20年来の付き合いになる在日華人(AARIの現顧問)から「江蘇省の常州市と仕事をしてみませんか?」との誘いを受けたのです。
初めて訪れた常州市では、大規模に整備された開発区を視察したり、巨大な市庁舎を案内されたり、そして偶然別件で常州を訪問していた原氏、深井氏の両名とともに市政府の高官と会食を共にしたりと、予想外の歓待を受け、以後、市政府とは比較的深く人的交流を開始することになります。ただ、当初常州市側が私に期待をかけてきたのは開発区への企業誘致。知り合いやクライアント企業に幾度か話を持ちかけてみましたが、「広告屋」の私に企業誘致など実現できるわけがありません。常州市側からの期待に応えられず、とはいえ築いたコネクションは無駄にしたくない。先方からの状況打診にも「なかなか上手くいかなくて・・・」と、何とも不甲斐ない回答をしているうちに、1年以上の月日が流れて行きました。
そんな中、転機は半年ほど前、原氏と会話をしている中で訪れます。「御社も中国で広告をうってみたら?」と、多分に商売っ気を含んだ提案をする私に、「いや、単なる広告ではなく、もっと目に見える出会いがあるような、そんな提案が欲しい」と答える原氏。そして、「例えば以前一緒に訪問した常州市に、我々の持つ技術を売り込むような、そんな形での製造業の海外進出を実現することはできないものだろうか」といった方向に話が進んでいったのです。
そして、「広告屋」が愛知県の製造業が持つ技術情報を常州市に向けて発信し、「製造業」がその情報の選定と日中間の企業の仲介を受け持つ。そんなビジネスモデルが誕生しました。共にリーマンショック以降の構造変化の波に晒され、そして同じく海外に活路を見出そうとする「広告屋」と「製造業」が初めて交わった瞬間です。すぐに常州市を訪問し、愛知県と常州市の製造業間のソフト面での交流を提案したところ、常州市政府から全面的な協力を取り付けることができた私たちは、あいち産業振興機構の「国際ビジネス専門家相談」による中国ビジネスの専門相談員の方を始めとした各部署の方々からアドバイスを受け、この3月、「愛知アジア総合研究所(AARI)」を設立するに至ったのです。 |