1914年世界大戦が始まり、市場を独占していたドイツの生産がストップするや、世界各地からの注文が当社へ殺到する。当時、従業員は1000名を越え、毎日500本のバイオリンを始めとして53種の弦楽器の他、23種の弓、13種のケースなど多岐に渡る製品が量産されていた。
この間も研究を怠ることはなく、1926年にはドイツの製作大家を多数訪問し、製造技術に磨きをかけ続けていた。そこでは「ストラディバリが名器を生み出した産地『クレモナ』巨匠の遺作に匹敵する絶品」という評価を受け、あのアインシュタイン博士も絶賛した。
「このような音色は、200年前のイタリアの巨匠の手に成ったものでなければ、世界のどこにも求めることはできない。それを日本で、名器と同じ音色を出すものが作り出されるとは驚きである」と評価し、後日政吉への手紙の中で「自分が愛用しているバイオリンと引き比べをしたところ、その場にいた皆が貴社のバイオリンの方が優秀だと判断した」とその驚きを綴っている。
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