戦後の昭和23年には合資会社として法人化し、昭和30年代後半には近隣の漁港で水揚げされるようになるメヒカリ(学名アオメエソ)を佃煮にすることが盛んになり、それをきっかけとして地元佃煮業界では昭和40年代後半までにはメヒカリの甘露煮(製品名沖はぜ)が業界において一定のポジションを得ることになる。しかし、生魚を素材とするため、生産性は不安定だった。
工業製品型の安定生産となるのは昭和50年代はじめにに冷凍原料を利用しはじめたことからである。得意の地場産のメヒカリに加え、冷凍さんまを原料とした「さんまの蒲焼」もラインナップに加えることで、その日の水揚げに左右されることなく安定操業が可能になった。業績は拡大し、年末などはおせち料理用で忙しさはピークとなった。
昭和62年に同業他社へ修業に行っていた現社長の平松賢介氏の入社を機に、鮮魚加工処理ラインや低温解凍機、遠赤外線セラミックローターなど先進的な設備ラインを導入する。
「当時3億円そこそこの売上でしたが、5億円の売上を想定してラインを作りました。結局、その後9億円になるまで少し手直しするだけでこのラインで操業することができました」と平松社長。
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