キックボクシングで名古屋から日本を元気にしたい

代表取締役 佐藤 嘉洋

記事更新日.2021.04

株式会社 BRHT

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ジムの看板で見せる2つの顔「世界チャンピオン」と「辞書を読む人」

 名古屋・池下の交差点の南東のビルを見上げると、ムエタイ最高王者と称されるブアカーオと対戦中の打ち合う男の姿の看板。キックボクシングで4階級制覇しK-1ファイターとして日本大会を連覇、世界大会でも準優勝となった佐藤嘉洋社長の経営するキックボクシングフィットネスジムである。その脇には「辞書を読んでいる人のジム」と書かれた看板も。これは1日1ページ辞書を読み、その考察をツイッター上で「#辞書の旅」として、2013年5月から今に至るまで毎日つぶやき続け、自らを「継続の気狂い」と称する佐藤嘉洋社長のもう一つの姿である。2つの看板には、来る日も来る日もトレーニングを続け世界チャンピオンにまで上り詰めた「世界レベルの継続力」と、「#辞書の旅」でハードなトレーニングで疲労の極にある日でもユーモラスな考察をつぶやく「どんな時も前向きであり続けよう」とする人柄とがにじむ。



格闘家・佐藤嘉洋

 佐藤氏がキックボクシングを始めたのは中学校2年から。
 「同級生と近くにできるボクシング世界チャンピオンの畑中ジムへ通おうと話していたのですが、直前に学校内で殴り合いの喧嘩になり、相手の方の体格が良かったこともありボコボコにされてしまいました。そこで、彼と同じボクシングに通ったらこちらは永久に勝てないと考え、あちらがボクシングならこっちは足も使うキックボクシングだ、と近くにあった『名古屋JKファクトリー』に入門することにしました。練習はきつかったのですが、自分のことも一人の選手として同じラインで扱ってくれるなど、師匠である小森会長や先輩の人柄に惚れました。学校では勉強を教わりましたが、ジムは人生を学ぶ『第二の学校』のようなものでした」。
 高校2年で大人も出場するグローブ空手オープン選手権で優勝、高校3年でプロデビュー。大学2年には日本ランカーにまで躍進、その翌年の2001年にはドイツ大会でウエルター級世界チャンピオンに。以後2004年にイタリアでスーパーウエルター級、2012年にライトミドル級、2014年には中国で英雄伝説72.5kg級世界タイトルを獲得し、世界タイトルの4階級制覇を実現。
 2005年からはK-1にも参戦。
 「本当は、キックボクシングがK-1のように光り輝く舞台になってほしかったのですが、K-1がキックボクサーたちの憧れの舞台になりました。自分を成長させてくれたのはキックボクシングですが、光り輝かせてくれたのがK-1の世界でした」。
 2006・2007年とK-1MAX日本トーナメントを連覇し、2010年にはK-1MAX世界トーナメントで準優勝を果たす。
 2015年に引退するまで世界のトップファイターと戦い続け80戦54勝、対日本人に限れば26戦24勝とほぼ無敵を誇った。

初めての経営、廃業の危機を救ったのは師匠と腕利き院長

 佐藤社長が経営者となったのは2007年。8月に「ぶる〜と整骨院(現・ぶるーと整体院・鍼灸院・整骨院)」を開院。2006年にK-1MAX日本トーナメントで初優勝し、アスリートとしては売出し中の時期である。
 「所属のマネジメント事務所と関連のある会社が、『現役プロアスリートが経営する整骨院』というビジネスモデルをつくりたいと提案してきたことがきっかけでした。金銭的なリスクは自分が負う契約でしたが、K-1MAX日本トーナメントの優勝賞金で大学の奨学金を返したところだったので、いいきっかけだと考え、挑戦することにしました。ただ、経営のことは全くの素人で、給料の支払い後の資金残高が3万円を切り資金ショート寸前になったこともありました。良かったことは、資格を自分で持っておらず、また、自分が常時関わることもできなかったので『自分がいなくても現場が回る仕組み』づくりを作らざるを得なかったということです。もし、引退後であれば『自分が中心で回る仕組み』を作ってしまっていただろうと思います。この経験は後のフィットネス事業を始めるときにも活かすことができました」。
 2013年ぶる〜と整骨院は存続の危機に陥る。女性スタッフで運営されていた整骨院は結婚や出産などスタッフの環境の変化で同時期に2人が退職することになってしまった。存続を希望した院長が当面は続けるとなったものの、新たなスタッフを探す必要に迫られた。腕のある有資格者を探すのは簡単ではない。見つからなければ閉院も視野に入れざるを得ない。そんな状況を心配してくれたのが周りの知人友人。ブログ、ツイッター、Facebookなどの呼びかけに多くの人が協力してくれ、最終的には師匠である小森会長からの紹介につながる。
 新院長は鍼灸の資格や特殊な骨盤矯正技術を持っている腕利き。それまで整骨院では交通事故の後遺症や怪我などの保険診療のみの対応だったが、新院長の加入を期に肩こりや腰痛などの自由診療まで対応することに。店名も『ぶるーと整体院・鍼灸院・整骨院』に改称した。院長の名前を冠した「有我式骨盤矯正」はバキバキやるのではなくグイグイと押して骨盤の歪みなどを矯正する治療法。施術後には、股関節の可動域が広がったり前屈で手が床につくようになったりする。
 「自分も施術後に練習したときには小森会長から『最近で一番いいキックだった』とお墨付きをもらったこともありました。海外在住の方で日本へ帰国するたびに来院されるリピーターもおられるなど名古屋市外からも多くの利用をいただいています。施術前の検査で施術の必要がない場合には料金はいただいていません。『かかりつけ治療院』のような長く続けられるモデルを目指しています。今お願いしている有我先生と小俣先生はぶる〜と治療院での最後のビジネスパートナーと決めています」。



「脳から変える」キックボクシングフィットネス

 
 2011年にはキックボクシングに特化したフィットネス、略してキックフィットを駆使したジム「JKF(ジャパン・キックボクシング・フィットネス)」を名古屋市の新瑞橋に開設。
 「キックフィットを思いついたきっかけは、試合後の軽い練習の帰りでした。試合では骨身を削るような減量とトレーニングを行うので、試合後は3日間休んだ後『積極的休養』といわれる慣らし運転のようなトレーニングから始めます。これを終えた帰り道、非常に気分が良くなったのです。そこで、この心地よい部分を抽出してトレーニングとして構築したら、新しいタイプのトレーニングジムができるのではないか、と考えました。自分でいろいろなビジネスを考えるのは好きでしたし、30歳を目の前にしてセカンドキャリアに関する漠然とした不安を感じるようにもなっていました。社会に出ている人は20歳代の間に様々なキャリアを積んでいますが、私にはそれがありません。何とか自分で積んできたスキルやキャリアが活かせないかと考えていたのです。JKFを開設にするにあたり一番考えたのは『自分がいなくとも事業が回る仕組みづくり』でした。これは整骨院開業時の経験が活きました」。

 選手育成もしている他のキックボクシングジムやキックボクシングの動きを形だけ取り入れたキックボクササイズとの違いを明確にするため「脳から変えるフィットネス」をキャッチフレーズにしている。
 「ミット打ちをしてみると分かるのですが、ココへ打ってくれとミットを出しても初心者が正確に当てるのはなかなか難しいのです。これは脳の司令と体がうまく連動していないことによるものです。歩いていても思ったより足が上がっていなくて躓いてしまうというのも同じ理由です。ミット打ちを正確にすることで、こうした乖離を修正していくことができます。慣れてくるとインストラクターがいろいろな動きのコンビネーションを指示します。それに合わせて打つとなると、体だけでなく頭も結構使うことになります。文武両道というのはこういうところからきているのかもしれません。ただ激しいスパーリングは大きな怪我の原因になりますのでやらせていません。本気で人を殴りたい方には選手育成もしているジムを紹介しています」。



『ワンオペ』から学んだ経営とジムづくり

   選手引退の2015年の翌年の2016年、ジムのインストラクターがやめることになり、佐藤社長自らが“ワンオペ”をすることに。
 「半年間のワンオペは大変でした。特に、前任のインストラクターは掃除をしっかりやってくれていたため『前より汚くなった』とは絶対言われたくなかったので、掃除を徹底的にやっていました」。
 しかしいつまでもワンオペは続けられない。「右腕募集」をしたところ、何人もの応募があり、元消防士の即戦力を採用。応募者の中に一人だけ、およそキックボクシングジムのインストラクターとは無縁そうな体型の人がいた。
 「話を聞くと、どうやら性格の真面目すぎることが災いして対人恐怖症のような状態だったようなのですが、大ファンだった格闘家の佐藤が困っていると知って、勇気を出して思い切って応募したとのことでした。それなら、最初は週1日でいいのでアルバイトとして掃除を手伝いにきてくれないか、それから将来はインストラクターとして働いてもらうためにも無料でジムを使ってくれていいから、と来てもらうことになりました。自分自身で徹底的に掃除をしていたおかげで彼に『ココとココは特に気をつけてやってください』『ココとココは週替りでお願いします』など具体的に指示できたことや彼の真面目な性格にも助けられ、目指す環境づくりに協力してもらうことができました。今では体も鍛えられ、インストラクターとして十分な戦力になっています。彼は2019年に正社員になりました」。
 こうして少しずつ信頼できるスタッフを増やしながら、自分もインストラクターとしてジムに関わり続けている。
 「キックボクシングで名古屋から日本を元気にする、というのが大きな目標です。面白さを伝え、競技人口を増やすためには、最初は細くてもいいから、とにかく長く続けることが大切だと思っています。そのためには無理にでも業績を上げたり会員数を増やしたりということは考えていません。また固定のインストラクターが長く在籍してくれれば、会員さんも『自分のことを知ってくれているインストラクターが見ていてくれる』という安心感のもとトレーニングを続けられます。そのために就業形態も工夫していいて、2016年からは退職者ゼロになっています。自分がインストラクターとして入ることでトレーニングしやすい雰囲気や働きやすい環境づくりを目指しています」。
 ジムの人気は評判となり、会員数はうなぎ登りとなった一方、退会数は減少し経営は安定し始める。

自分にしかできないジムで健康と居心地のよさを提供したい

   こうして2018年、2店舗目の出店準備に入る。
 「タイミングよくインストラクター志望の人が見つかったこともあり、物件探しをしていました。この池下の物件を見た時ビビっとくるものがあり、そのあとの物件の下見はキャンセルしここに決めました。内装は新瑞橋店でお願いした業者さんと何度もすり合わせをし、そこでの反省点を全てクリアしノウハウを詰め込んだものになりました。看板に使用したかったK1でブアカーオと打ち合う試合中の写真使用も、カメラマンさんが快く許可してくださり、私のジムでしかできない看板となりました」。



   池下店も近隣を中心に評判となり会員数も多くなった。
 「月当たりの会費は10,000円と安くはない金額を頂いています。会員さんにはどちらのジムも使っていただけるようにし、一生の健康をサポートするつもりでやっていますので、長く続けてもらえればと思っています。インストラクターは会員さんの顔と名前を覚えていますが、会員さん同士も長く続けてくだされば知り合いばかりになり仲良くなれます。当ジムではパンチを受けるミットを持つのもエクササイズの一つにしています。ミットを持つことで会員同士の交流も生まれます。つい先日のことですが、ジムの前で会員さん同士が待ち合わせていたと思ったら、そのままジムに寄らずに居酒屋へと消えていく、といったことがありました。この光景を見て、ジムで人と人とのつながりを生み出せたことにすごく喜びを感じることができました」。



   『キックボクシングで名古屋から日本を元気に』。
 佐藤社長のこの目標はキックボクシングを介して、体の健康だけでなく、ジムの分け隔てのない雰囲気で生まれる人と人とのつながりで皆が元気になってくれればという思いである。 「このジムへキックボクシングをしに来て元気になった」そんな言葉を目指し、持ち前の持続力で今日もまた前へ進む。



取材・文 有限会社アドバイザリーボード 武田宜久