創業者の鬼頭光治氏は腕利きのゲージ職人で、速くて上手、人の10倍仕事をこなした。トヨタ系の勤務先で腕を磨き、自動車部門ができたときにも初期メンバーに選ばれるなど会社きっての凄腕だった。1942年に独立後も元の勤務先からその腕を見込まれ、引き続き仕事を受注していた。ほどなく、朝鮮戦争による軍用トラック特需でエンジンの増産に追われる中、豊田工機(現・ジェイテクト)では多軸ボール盤の破損に困っていた。使われていたジョイント部品がすぐに壊れ、エンジンのシリンダーブロックの加工遅れに悩まされていた。アメリカから交換部品を取り寄せていたが、すぐに調達難となった。そのため同様の部品ができないかと社内で作り始めたが加工精度が出せない。そこで精度に関しては腕利きで鳴らした光治氏のところへ依頼がやってきた。
「その頃の記録を見ると、治具や検査器、加工の仕方や製造工程の組み方など多彩なアイデアがあったようです。父の職人としての技術の高さを垣間見ることができます」と現社長の鬼頭佑治氏。
試行錯誤の末、1年もかからず壊れないジョイントを完成させた。
その後、豊田工機では製造に関する強力な武器になると考え、門外不出として同社以外に販売することを禁じ、それは10年間続いた。
1962年、10年間の門外不出が解禁され、現社長の鬼頭佑治氏も加わりユニバーサルジョイントの販売を始める。
当初は課題を抱えた客先に売れたがやがて壊れないことが災いし、リピートオーダーがなくなってしまった。 「壊れないことを強みに、農業機械分野へ売り込みを図りました。田畑では泥道や凸凹など悪路の連続で、壊れないジョイントが強く望まれていました。思惑は当たり、すぐにバインダーやコンバインに採用されました。専用機の導入や人の採用など量産体制を整えました。夜昼なく月に11万個の部品生産を行っていましたが、発注も刈り入れの季節である秋に向けての生産のため、残りの半年は仕事がありません。どうにもならず、やむなくリストラまでする事態となってしまいました。この時、二度とこのようなことがないように幅広くマーケットを開拓し安定した経営をしなければならない、と誓いました」。
新たなマーケットを求め佑治氏は全国を走り回った。
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