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名古屋扇子の伝統的製造技術を未来へ
川瀬 貞男

記事更新日.11.12.01

株式会社 末廣堂 代表取締役
■問合せ先
株式会社 末廣堂
〒451-0044 名古屋市西区菊井一丁目1番14号
TEL 052-562-0135戟@ Fax 052-571-1011
印刷用ページ
■日本人の生活に深く根付く扇子

改めて振り返ってみると、扇子ほど我々日本人の生活・文化に大きく溶け込んでいる道具は少ない。七五三、成人式、結婚式、家を建てる時の上棟式等の冠婚葬祭では実用・装飾用途としてつきものである。また、能・狂言・歌舞伎・落語・踊り・お茶などの日本の伝統芸能・文化では、所作に使われる重要な道具でもある。
扇子の二大産地は京都と名古屋。京都では舞・茶道・装飾用や婦人物が主体に作られ、名古屋では祝儀・儀式用や男性向けの扇子が作られ、それぞれに「京扇子」「名古屋扇子」と呼ばれている。この名古屋扇子を大正元年より作り続けるのが、株式会社末廣堂である。


■輸出主力からドルショックで大幅減

名古屋扇子は、徳川将軍9〜10代の宝暦年間に、京都から現在の名古屋市西区幅下地区へ移住してきた井上勘造親子によって始められたのが、その起こりとされる。明治時代からは、中国・朝鮮半島への輸出により年1000万以上の生産高もあげるなど、一帯は名古屋扇子の産地となっていた。
当社の歴史はそんな大正元年、創業者の川瀬貞二郎氏が輸出向け扇子製造業「川瀬扇子商店」を開業することから始まる。 当初から輸出中心で、売り上げの90%が輸出が占められており、国内向けは10%程度であった。 「製造した扇子を輸出用の木箱に詰めたものを港へ持っていくため、非常に重かったということを聞いています」と語るのは三代目現社長の川瀬貞夫氏。
戦後もアメリカ、オーストラリア、ドイツなどへの輸出用量産型扇子を中心に製造していたが、昭和46年8月のドルショックで1ドル=360円が1ドル=308円時代を迎え、さらに変動為替相場制へ移行する中、急激な円高が進行し輸出が大幅減となってしまう。
 

■自社の強みを活かし、他社の手薄なノベルティ事業で活路

「やむをえず、当社は販路を国内に求めることになるのですが、当然のことながら同業者がガッチリと販売ルートを押さえています。そこへ仕掛けていっても結局価格競争だけになってしまい、共倒れになるのがみえていました。当社は輸出用の量産体制を持っていましたので、量産ができる強みとコストメリットを出せる強みを活かそうと考えたのです。そこで、企業のイベント用・ギフト用など量産需要のあるノベルティグッズとしての企画生産へ活路を求めました。当時、個人向けの扇子製造中心であった業界仲間からは珍しがられましたが、今では売り上げの9割ほどを占めています。ある程度の売上高が確実に確保できるこうした事業は、経営基盤や生産基盤を作っていくには必要であると感じます。廃業する同業者が出てくる中、当社がまだ生き残っていけるのはこうした事業のおかげであり、また、当時から将来ビジョンを持って様々な工夫を行ってきた結果だと思っています」と川瀬社長。


■職人技に支えられる扇子作り、縮小する産業インフラに危機感

こう語りながら、名古屋扇子業界の将来について「次々と廃業をする企業がでてきたり、職人の高齢化などで、扇子作りの技が継承されていくことに大きな危機感がある」とも語る。
扇子の生産工程は大きく分けて、扇骨作り→扇面作り→絵付け→折り加工→仕上加工と5段階に分かれ、その各段階も多くの職人の手を経る。これらは、当社のような製造卸がすべての材料を仕入れ、各工程の加工を行う職人へ下請けに出す分業体制である。 「扇骨作りは、今では機械で粗削りをし、その後職人が専用の工具で仕上げを行ない、最後に扇子を開く中心になる『要打ち』を行います。扇面作りは骨を差し込む袋状の芯紙を裏表2枚の皮紙で挟んで糊付けをし、型抜きをします。次に絵付けでは地紙に絵を描きます。今では様々な加飾法や印刷法がでてきましたが、手書きの風合いを好まれるお客様も根強くおられます。その後、折り加工で骨の本数に合わせて正確に幅を折ります。ここで失敗すると扇子を閉じたときに不揃いになり、商品になりません。そして最後に扇面と扇骨を合体させる仕上工程です。扇面の芯紙の袋状になった部分に息を吹きかけ穴を開いて扇骨を差込み、製品になります。このように、それぞれ分業化した職人が、専用の工具を使い手作業で加工していきます。」
 


こうした分業体制は、昭和46年ごろまで当社周辺に数多くの職人が居住し産業集積が形成されていた。 「昔は大八車を引いて職人さんから職人さんへ仕掛製品を運べるほどの距離に職人さんが集まっていました。ところが、昭和46年に市電が廃線になり、その後道路の拡幅が行われた際、この地を去らざるを得なくなった職人さんも多く、また、同時期のドルショックによる仕事量の減少もあり、今では職人さんの集積も数少ないものになってしまいました」と語る川瀬社長は、このまま扇づくりの職人という産業インフラが消えて行ってしまうのではないかと大変危惧している。
 

■夢とロマンの直営店舗で名古屋扇子を守る
そんな川瀬社長。何とか名古屋扇子の将来像を描きたいと、製造卸としては珍しい直営の店舗を平成12年にオープンさせる。

「名古屋扇子をPRし、また、自社製品のショールーム的位置づけに、と考えオープンを決意しました。実際に商品を見ていただくことが何よりのPRと考えたのです。生活の中で、特に冠婚葬祭に深く根付く扇子という位置づけから、扇子だけでなく冠婚葬祭用品なども幅広く扱うことにしました。扇子については品揃えを意識し、お客様のニーズに極力応えるようにしたり、修理も受けたりするなど当店ならでは、という特徴も出しています。また、地場産業を広く知ってもらう意味で、小中学校の扇子づくりの体験学習も開催しており、年間で30数校が来店してくださっています。おかげで、最近ではこういう伝統的なものづくりに携わりたい、と入社を希望してくれる方もでてきました。名古屋扇子の伝統を絶やすことなく守り続けなければと考えています」と名古屋扇子の将来も見据えて語る川瀬社長である。
 
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